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随筆


肝油の天ぷら
 肝油の天ぷら
 

昭和19年11月24日の昼下がりB29の大編隊が透き通る晩秋の青空に銀色の翼をキラキラと輝かせて、白い飛行雲の尾を引きながら帝都の空に進入してきた。敵の当初の目的は郊外の軍需工場の爆撃であったが、次なる狙いはこれから数ヶ月に渡る焼夷爆撃により日本全土を完膚無きまでに焼き尽くすことにあったとは、当時誰も予測していなかった。

O研究所は渋谷区宮益坂の中程に建つ白亜の瀟洒な建物で、半地下にあった倉庫が防空壕として使われていた。そこは今まで物置きになっていたが急いで片づけて、机と椅子を配置した雑然とした部屋であったが、空襲警報が鳴ると会議は此所で行う事になっていた。 帝都に空襲警報が鳴り響いた丁度その日の午後、O研究所の半地下の防空壕兼会議室では会議が開かれていた。 会議と云っても大方の若い研究員は招集で軍に引っ張られ、この会議に出席しているメンバーの顔ぶれは、老人の所長と主任、
病弱で兵役を免れたIとAとN、それに年配の老研究家M氏とW嬢を併せて総勢7人で、それぞれテーブルを囲んで集まっていた。

K所長はドイツの大学で研鑽を積み学位を取って帰朝後、長年T大学で教鞭をとっていた薬学の大御所であり、退官後ここの所長に納まったと云う経歴の持ち主であった。背は低いがでっぷりと太って貫禄があり、戦争さなかと云うのに国防服は着用せず、きちんと背広を着込み、その見事な銀髪の赤ら顔には威厳があり、鼻先にずれ落ちた金縁の老眼鏡越しにぎょりと大きな目玉で睨まれると、大方の所員はおそれをなして目を伏せた。 「きみー、衛材(えいざい)からペニシはその後どうなっているか報告しろと云って来てるんだがねー」と傍らの老N主任の方にギョロリと目を向けた。

この研究所ではN主任の班が戦時研究員として陸軍衛生材料省(略して衛材)から色々な研究を委託されていた。尤もN主任班と云っても年老いた主任と、この秋、大学のT教室から廻されてきたばかりの若い研究員Iとの二人きりのささやかな班であり、主任とIとは親子ほども年が違っていた。
テーブルを囲む他の研究員との打ち合わせが一巡して、所長の質問がN主任班の席へ廻って来たのである。 N主任は所長より年上で開所以来O研究所の番頭役として所長に仕え、干し柿の表面に吹き出す白い粉の研究で学位を取った碩学の徒で、面長な顔の大きな鼻に銀縁眼鏡がよく似合う、長身で大層穏やかな人物であった。 所長の問いに眼鏡の奥から柔和な目つきで
「ああ例の碧素(へきそ)(ペニシリンを当時軍ではそう呼んでいた)の事ですね」と確認して、
あれから直ぐ良い菌株を探したのですが、なかなか見あたらなかったのです。所が偶々助手のI君が塩漬けの茄子に生えた青カビを調べてみたら、大変高濃度にペニシリンが含まれていることが解り目下、追試中です」と説明した。 「ああそうか、それを早く伝えて欲しかったね。併しそれは大発見だ、報告書を急いでくれ給え」と所長は念を押した。

「それから例のビタミンAの濃縮の件はどうなっているんだね」とせかせかとたたみかけた。 「その件については、どうやったらうまく抽出できるかと色々試(こころみ)ましたが、大体の目鼻は付いた所です」 とのN主任の落ち着いた返事に
「この件では先方さんも大分急いでいるようなので何とか早く結論を出して欲しいね」
と所長は要望した。ところがN主任は困惑した表情で
「それが、肝心の肝油があと11リットル程しか残っていないので困っているんですが…」との回答に、
「うーん、そうか、もとがなければどうにもしょうがないね、そういう事は早く云って呉れ給え、何とか廻して呉れるように先方に催促するよ」と所長の返答が帰ってきた。

N主任にしてみれば実際は今までに何度も催促していたが、事務局を通さず何でも自分で片付けなければ気が済まない所長の事だから、多分衛材に催促するのを忘れていたに相違ない、と心の中では思っていたが反発は止めて穏やかな口調で
「宜しくお願いします」と頭を下げた。
このテーマーつまり、ビタミンAの濃縮とは一体何が目的だったのか、勿論この苛烈な戦時下にビタミンAの純品を取りだして研究しようと云う悠長な話ではなかった。当時日本のレーダーシステムは不完全で、空中戦では遙か遠くの敵機を捕捉する能力に欠け専らパイロットの視力に頼っていた。そのため初戦の華々しい戦果は次第に影を潜め、日を追うごとに苦戦を強いられる羽目に追いやられていた。

そこで軍部が思いついたのはレーダーには及ばなくても高濃度のビタミンAをパイロットに呑ませれば視力が強化され、肉眼でも速やかに敵機を見つけて攻撃出来るようになるのではないかと考えた末の苦肉の策であった。 その日の空襲は都心から外れた多摩地区の軍需工場が目標で、ここ渋谷は平穏無事、警報が解除された研究所では、窮屈な地下室から解放されてほっとした所員達がそれぞれ自室に戻って来て再び研究を始めようとしていた。 N主任とI研究員も前後して戻ったが、部屋に入るやN主任は開口一番「先生はあれだから困るよ」と会議で反発出来なかった分、若い所員のIに愚痴をぶっつけた。

N主任はK所長のことを単に先生と呼んでいたが、普段は温厚な主任も、いくら催促しても一向に間に合わない材料不足で、遅々として進まない研究に業を煮やしたと見えて、思わず愚痴をこぼしたのであろう。併しそれは確かに所長の物忘れの精もあっただろうが、あらゆる物資が無くなっていたこの頃、肝油は貴重な栄養資源としてなかなか手に入らなかった事は想像に難くなかった。
所長の確約に気をよくしたIは
「じゃー主任、けちけちしないで今あるやつを全部使っちゃいましょうか」 と弾んだ声で提案した。
「うーん、そうだね、でも先生の約束はあまり当てにならないが、後は後のこととしてやってみるか」と主任は応じた。

このN班が陸軍衛材から委託されていた差し当たってのテーマは肝油中のビタミンAの濃縮と、青カビからのペニシリンの抽出であった。ペニシリンの研究に付いてはこれまでN主任一人でやっていたため可成り出遅れていたが、今度新人のIが加わったのでこれから本腰を入れて始めようと云う段階で、研究は未だ著に付いたばかりであった。所がそれに対し、梅沢浜夫博士等のチームは可成り先行して成果を挙げていたが、併し軍は少しでも早く実用化させたい為この研究所にも研究を督促していた。一方肝油からのビタミンAの抽出は、ペニシリンより前に委託された研究テーマであり、ほかではやっていなかったため、乏しい原料を無理をして研究所に廻して呉れていたようであった。 肝油を如何にして濃縮し高濃度のビタミンAを抽出するか、このテーマーにN主任は日夜懊悩し続けた。 当時、定かな情報ではなかったが、アメリカでは高度の真空状態での蒸留法、つまり真空蒸留法によって高濃度のビタミンAを取り出していると伝えられていたが、日本では未だそのような装置は無く、蒸留に依る精製などは到底考えも及ばなかった。N主任は様々な方法を考案しIに命じて試みさせたが、その中でも活性白土に吸着させる方法が一番手軽で安くつくとの結論に達した。
本来活性白土は油の中の不純物を吸着して油を精製する為に使うものだが、その吸着力を利用して肝油の中の ビタミンAを吸い取らせて集めようと云う発想であった。N主任がこの前の会議で大体の目鼻がついたと答えたのは、試験管内での実験である程度濃縮が確認されたからであったが、本格的に始めるには可成りの量の肝油が必要となり、またそれなりの装置も必要であった。

其処でN主任は色々と試行錯誤の末、11リットル入りの装置瓶(そうちびん)に肝油と白土を入れて台座に据え、台座ごと前後にゆするという簡単な方法で、量を増やした実験を行おうと計画していたが、肝心の肝油が残り少ないためこの方法での実験は中断されたままとなっていた。
N主任が「やってみるか」と云ったのは計画はしたものの
まだ実行されていないこの方法で始めてみようかと思ったからである。

彼の決断で早速特製の震盪装置が引っ張り出されると、若い所員Iは貴重な肝油を勢いよく11リットル瓶に注ぎ込み活性白土を落とし込んで装置にセットして震盪させ、結果如何にと見守った。
モーターの唸りと共にこの機械は忠実にがたんごっとんと装置瓶を前後にゆすり続け、やがて数時間後白土混じりの肝油が取り出され、濾過して集められた白土は三角フラスコに移され、溶媒で抽出された。溶媒を飛ばしたあとの残留物はタール状で褐色のねばねばした液体で特異な臭いを放っていた。Iはこのタールの一部を用心深くガラス棒の端に取って試験管に移し溶媒で薄めて試薬を注いだ所、管内にはむらむらと濃紺色の色素が入道雲のように舞い上がりIを驚愕させた。
これまでになく高濃度のビタミンAが検出された証拠であった。

「主任、成功しましたよ」とIは上ずった声でN主任に報告した。
N主任は同調して喜ぶものと期待したIに
「うむ、抽出はうまく行ったようだが、未だ未だ安心は出来ないよ」と冷静に答えた。
期待に反した彼の返事に
「なぜですか」とIは口を尖らせた。
「僕が一番心配しているのは安定性の問題なんだ」

これは彼が前々から心配していた事だった。確かに呈色試験ではビタミンAは予想以上に驚くべき高濃度で抽出されることが証明されたが、彼の杞憂は当たってこの抽出物はわずか数日でビタミンAを消失してしまった。 こう急速にビタミンAが消失する原因はどうも抽出に使う溶媒に含まれる不純物が原因ではないだろうかとN主任は考えた。そこで今度は嫌疑を掛けられた溶媒の精製が始まったが、溶媒をいくら精製してみても結果は同じで研究は行き詰まってしまった。
その後衛材からは毎月石油缶1本ずつ肝油が送られて来たが蓋を開けてみると褐色に変質して、いやな臭いを放つものばかりで殆ど使い物にならなかった。

「よくこんなものを送って来るなー」と、そのたびにN主任は渋い顔をした。 翌年2月末になってまた1本送られて来たが、今度は外装も綺麗で蓋を取って見ると珍しく良質な肝油であった。後の補給が解らないため、ちびりちびりと少しづづ研究材料に使っていたが、併し原料はそれっ切り送って来なくなり補給は全く途絶えてしまった。5月になっていよいよ原料は来ないことが分ってくると、残りの全部をA消失原因の究明に使ってしまって良いものかどうかとN主任は迷った揚げ句、後の補給が続かなければこれ以上研究を続けても無意味であると判断した。

「きみー、最後に来た肝油は最近滅多にない上質のものだから全部研究材料に使ってしまうのは勿体ないよ、残りの半分は天ぷら油に使ってみたらどうかと思うんだがね」
と提案した。
「えっ、肝油の天ぷらですか」と驚くIに
「いやー僕も肝油の天ぷらと云うのは今までに試してみたことはないんだがね、でも植物油と魚油の違いだけだから、生臭いのを我慢すれば食べられないことはないと思うよ」と結論づけた。

「それにしても随分生臭いでしょうね」と助手は顔を顰めたが、その理由は遙か昔の思い出にあった。 戦前Iが通っていた北九州の小学校では児童の栄養状態が悪く夜盲症、弱視、近視などの子が多かったので、これを少しでも改善しようと児童には肝油を強制的に呑ませていた。保健室で列を作って順に前に来る子供等に保健婦は針の付かない太い注射器に肝油を吸い上げ「はい、口を大きく開けて」と怒鳴っては次々と子供等の口の中に肝油を流し込んでいった。肝油を流し込まれたあとには甘いドロップが貰えるのでそれを楽しみに、子供らは顔を顰(しか)めてこの生臭い肝油をごくんと飲み込んだが、Iはこのどろっとした生臭い油はとても我慢がならず、口にはいると思わず「げっ」と吐き出しそうになり、大急ぎで口なおしのドロップをほおばった記憶が鮮明に残っていた。 肝油濃縮実験は昭和19年の秋から始まったが翌年の春頃になると食べ物はいよいよ困窮を極め、主食の米の半分以上は大豆の絞り粕だったが、それも途絶えがちでほかには何も食べるものがなく、所員達はひもじさに堪えかね、食べ物を求めて近郊の農家に食料の買い出しに走り回り、研究どころではなくなっていた。

青葉が目にしみる5月初旬のある日、N主任は鞄の中から大事そうに新聞包みを取り出しIに「開けてごらん」と促した。云われるままにそっと開けてみると何と近頃では滅多にお目にかかれない貴重なサツマイモであった。 「主任、こんなもの一体何処で手に入れたのですか」と訝るIに
「うーん、このあいだ、僕の郷里に用があってね、其処で無理を言って分けて貰ったんだよ」と、奥さん手縫いの防空頭巾を背中に背負ったまま弁明した。
「主任のお里は確か愛知県でしたね」 「そうだ、愛知県でも知多郡の田舎の方でね、野菜農家だから結構色々な野菜はあるんだがね、ただ芋は供出品で厳しくてなかなか分けて貰えないんだけど、無理を言って何とか貰って来たんだよ」
と自慢げに大きな鼻をうごめかせた。彼は肝油を天ぷら油の代用にしてこの貴重な材料を揚げる計画であった。 Iに、残りの肝油を鍋に移して実験台のガスバーナーに点火するよう命じた。

「I君この料理は先生には内緒だよ」との彼の念押しに合点してIは早速芋を輪切りにし、これも主任が大事に取っておいたメリケン粉をまぶして煮立った肝油の中に放り込んだ。芋は威勢良く泡を立てて鍋の中を動き回ったが、頃合いを見計らって取り出し新聞紙で油を切ったアツアツの肝油天ぷらをIはおそるおそる頬張っだが、肝油のいやな臭いは消え、香ばしい芋の香りがツンと鼻に抜けて、思わず「うまい」と叫んだ。
「主任、これは結構いけますね」とIの絶賛にNも、揚げたての天ぷらを口中に
「うん、僕もこれほどうまいとは思わなかったよ」と相づちを打った。 近頃、揚げ物などついぞ口にしたことのない二人に取ってこれはま正しく天与の珍味であった。その後も色々と具を変えて揚げた天ぷらは、他の研究員にも配られ、ひとときではあるが空腹を満たす栄養源として所員には大層人気を博した。併し、家族へのお土産にと持ち帰ってみると一旦冷めた肝油天ぷらは特有の生臭い臭いが鼻を突き、いくら空腹でもたべる気になれなかった。

肝油が天ぷら油に化けた研究生活もそう長くは続かず、それから間もない5月25日夜の新宿から山の手へ掛けての大空襲でここ渋谷も焼け野原となり、所内の原料や器材は悉(ことごと)く灰燼と化し実験は終わりを告げた。焼け野原にポツンと残った満身創痍の研究所の焼け跡整理が終わったころ、この研究所は陸軍衛生材料省の分室となりペニシリンの研究を続行せよと命ぜられたものの、それもかけ声だけで研究材料も無く、為すすべもない焼け跡の生活が暫く続いたが、併しそれも8月15日の天皇の終戦宣言で総ては終わった。

かくしてO研究所の肝油の濃縮実験は不成功のまま終ったが、唯一肝油は天ぷら油の代用品になると云うことだけは証明された。あれから61年を経た今日、肝油天ぷらの味を知っている当時の人達はもうこの世には居ない。



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