某月某日午前、彼の取引先のS銀行から妙な電話が掛かって来た。
「社長、貴方名義の定期預金証書を持参して現金に換えたいと言って来ている男がいますが、いいですか」
「えっ定期預金の証書?」彼はおおむ返えしに聞いた。
「ええそうです」
「で、それはどんな風体の男ですか」と、いぶかしげに聞くと
「そうですね、背丈は170センチ位でガッチリしたタイプの、40才くらいかな、口髭を生やした人相の悪い男です」と、電話の向こうからは、あたりをはばかるような小声で伝えて来た。
「暫く待たせて置いてください」と電話を切り彼は慌てて金庫 の中をかき回したが、確かにS銀行の100万円の定期が一本見あたらない。
「おかしいな泥棒?それにしてもなぜS銀行の証書だけが無いのだろう」彼はぶつぶつ独り言を言いながら再び電話器を取り上げ
「今すぐそちらへ行くからその男を逃がさないように」と口早に伝えてS銀行に飛んで行った。
カウンターの前に憮然として突っ立っている人相の悪い男、それはなんと彼の長男ではないか。
彼の唖然とした顔をまじまじと見て居た長男は「取りに来るのが遅かったんだよ」と、ぶすっと一言説明した。実は一年前、長男に営業資金の一部として、S銀行の定期を一本渡したのだが、何時になっても換金に来ないまま日が過ぎて、その内に渡した事もすっかり忘れてしまっていた。そこへ今頃になって換金に来たものだから、銀行もすっかり泥棒扱いにして、人相が悪い男と見たのであろう。
「捉えてみれば我が子なりか」と彼は苦笑した。
日頃よく経験することだが例えば、テレビに窃盗、殺人容疑などで顔写真が出ると、いかにも悪い人相だと思うが反対に、表彰などされて出る人の写真は、皆いい顔に見える。人の顔も思いこみで、同じ人でも良くも悪くも見えるのであろうが、これは、先入観に捕らわれて人を見てはならないという教訓であろうか。
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