「もう行くの」と聞くと「うん、これからね」と言って丸めた頭をポンポンと叩いた。頭は坊主でも胸の当たりは膨らんでいて、どう見ても、もうりっぱな娘であった。
「お母さんが挨拶に行って来なさいと言ったの」と立ったままそう言った。今度またいつ会えるかと思うと無性にいとおしくなって「木祖の叔母さんの所へ行ったら、ちゃんとお手伝いするんだぞ」と、手を握ろうとしたら、あかんべーをして飛んで行った。
八月というのに薄曇りの、うすら寒いような日が続いていた。もう空襲警報も鳴らず敵機も飛んでは来なかった。確かに戦争は終わったことを肌で感じた。娘二人がいなくなったこの家は急に静かになった。にわかに戦争が終わってみると緊張感がなくなり二、三日放心状態が続いた。それでもまだ夜中に何度か、敵機の機銃掃射の夢を見てうなされた。
いったい何をしてよいのか、第一、日本がこれからどうなって行くのかも、皆目、見当がつかないままに、取りあえず両親のもとに帰って、これからの人生を考え直すことにした。職場には辞表を出し、
荷物をまとめて世話になった、この家の夫妻に挨拶をすませると、彼は帰途についた。昼過ぎ、渋谷駅から乗った山手線の車両には、二十人前後の乗客しか乗っていなかった。みんな疲れ切って貝の様に黙りこくっていた。恵比寿から乗り込んで来た大柄の朝鮮人(韓国人のこと、当時はそう呼んでいた)と思われる男が大股を広げて座席にどっかと腰を下ろした。電車が駅を離れると突然、この男はすっくと立ち上がったかと思うと、いきなり声高に怒鳴り始めた。「お前ら日本人は戦争に負けたんだぞ、日本は敗戦国だ、みんな判つてるのか、お前ら、今までさんざん、朝鮮人、朝鮮人と俺たちを馬鹿にしやがって」と言うなり、隣に座っていた乗客の胸ぐらを掴んで締め上げた。己の罵声に己自身が興奮して来たこの男は、「この馬鹿野郎、お前もだ」と続いて隣の乗客の喉元を締め上げて車両の真中まで引きずって来た。「みんな判っているのか、ざまあ見ろ、お前らは負けたんだ、負けたんたんだぞ」と、大見得を切って、締め上げた手を突き放した。乗客はよろよろとよろけて電車の床に尻もちをついたが、並みいる乗客はみな目を伏せたまま、誰一人としてこの男に反発しようとはしなかった。省線電車[注1]は轟音をあげ、車輪を軋ませながら品川駅に滑り込んだ。ドアーが開くと、この男は肩をいからせて悠々とホームに消え去って行った。どうしようもない敗戦の実感が哲也の胸を強く締め付けた。ああ戦争に負けた、完全に負けた、これから先、日本はどうなるんだ、と彼は独り暗然とつぶやいた。
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