岩田哲也は中学校時代から物質の化学変化にたいへん興味を持ち、将来化学者になることを夢見ていたが、生来体が弱く、いつも薬の世話になっており、いっそのこと『薬や』なってはどうかという母親の強い願望があった。併し彼は『薬や』という町の商店を志す気はなかったが、化学の応用部門である薬学なら母の意にも添うので、専攻しても良いと思い、昭和十六年(一九四一年)四月、帝都薬学専門学校の門をくぐった。そのころ支那事変が長引き、日本軍は支那大陸の奥深くまで侵攻していったが、戦いは容易に決着がつかず、遂にこの年の九月には、支那の蒋介石軍を援助するための物資輸送路である、援蒋ルートの遮断と、南方資源の獲得という一石二鳥を狙つて北部仏印への進駐が始まった。当時巷では、今にアメリカとの戦争が始まるに違いない、と密かに囁かれるようになったが、大部分の国民は、まさかこの年の十二月に大戦が勃発しようとは思ってもいなかった。しかし国民の知らない所ではひそかに軍の大動員が行われていた。哲也は、学校に入って初めての夏休みを、父の郷里、滋賀県米原の伯父の家で過ごしていた。東京では、この春から米は一人二合三勺、外で食べるには外食券が必要であつたが、田舎はまだまだ食べ物も潤沢で、すべてが配給制度の窮屈な東京の学生にとつては、たいへん有難い所であつた。さしも暑かった夏も、月末になると朝夕はめっきり凌ぎよくなり、水を打った中庭に立っていると、タ暮れの木立からは、カナカナカナというひぐらし蝉の、もの悲しい鳴声が、一陣の涼風に乗つて聞こえて来るようになった。そろそろ東京に帰らなければ、と思って荷作りを始めた所へ、東京の父親からの電話で『Ｔ先生が出征されることになり、今夜九時過ぎに米原駅を通過する列車に乗っておられる』という知らせを学校から受けたので、見送りに行ってあげて欲しい、と連絡して来た。Ｔ先生は、母校M中学の英語の先生であり、また軍事教練の教官でもあったが、中国の戦線から帰還後再度の召集であった。今夜九時過きといえば、九時七分発の大阪行き急行列車の後の、臨時便の軍用列車に違いなかった。伯父にこのことを告げるとすぐ伯母に、「あんた、おにぎりを、作ったりなはれ、ほれから杉本屋のウイロウも、買うといたら、どやろうな」と言って握りめしを作らせ、杉本屋という隣の菓子屋からは、ウイロウ誂えさせた。その頃の米原町は、東を山に遮られた中仙道添いに、帯の様に細長く軒を連ねた北町がメインストリートで、西は琵琶湖々岸まで一望干里の田んぼであった。湖の東岸、琵琶の形が一番ふくらんだあたりに位置する猫の額ほどの小さな町だが、北陸線との分岐点であるため、駅だけは無暗にだだっぴろく大きかった。下り急行列車が定刻に出発した後、構内はガランとして人影もなく、駅弁売りも、どこかに消えて、ホームの軒に行儀よく一列に並んで下がっている電灯だけが、レールをにぶく照らし出していた。やがて北の方角から車輪の軋む音が線路を伝って響いて来たと思う間もなく、真っ黒な車体の中央部に、くっきりと横一文字に白線を引いた二台連結の蒸気機関車が、おびただしい数の客車を後ろに従えて、荒々しく構内に滑り込んで来た。関が原の嶮を越えて来たばかりの軍用列車は、激しい息づかいを闇夜に響かせていた。驚いたことに涼風が立ったとはいえまだ暑いこの夜、汽車の窓という窓には皆、よろい戸が降ろされていた。卒業以来会っていないＴ先生の面影を頭に描きながら、彼は伯母と二人でホームを端から端へ、目を皿のようにしてかけずり回っているうちに、よろい戸が一個所開いてイガ栗頭に美髭をたくわえた、見覚えのある顔が手を振っているのを見つけた。