暫くすると医師がやって来て死因の確認のために病理解剖をさせて欲しいと申し込んできた。反対する理由もなく達哉が了解すると、遺体は解剖室に運ばれて行った。２時間程経った午前３時過ぎ顔に白い布を被せた遺体は再び皆の元に戻って来た。義妹は一旦引き上げ、彼と息子等は遺体を運ぶストレッチャーが来るのを待ち受けていた。やがて運ばれてきたストレッチャーに載せられた遺体は、長い廊下を出口に向かい、ゆっくりと進んで行った。昼間は患者の出入りで賑わっていた廊下はひっそりと静まり返り、搬送車の小さな車輪が立てるキッキッという軋みだけが辺りに異様に大きく響いた。魂が抜けてなきがらとなってしまった患者の最後の出口は地下一階で、そこからは急な上り坂が地上に向かってせり上がっていた。遺体は待機していた黒いワゴン車に載せられ、最後に立ち会った医師と看護婦が深々と頭を下げるなか、静かに坂を上り詰めたあと、ひたすら未だあけやらぬ国道を滑るように家路に向かって疾走した。東の空は白み始めたが、それでもまだ青白く点灯している街灯が何となく間がぬけて見えた。ふと達哉は口ずさんだ。

「だーれかさんが、だーれかさんが、だーれかさんがみーつけた、小さい秋、小さい秋、小さい秋みーつけた」

秋になると姉さんかぶりに襷がけのかいがいしい姿の志織が、破れたり薄汚れた障子の張り替えをするのが年中行事であった。障子の桟にのりを付けて紙をを貼り付ける作業の合間によく歌っていたのが、この童謡であった。その日も志織は口ずさんでいた。母親との激しい確執を彼にはどうする術もなく、ただ見守ることしか出来ないふがいなさをかみしめていた彼には、彼女がいさかいを忘れようとして歌っているのだなと思うと、不憫に思えてならなかった。今となってはどうしてやることも出来ない、あの時もう少し何とかできなかったのだろうかと思う悔悟の念が激しく彼の心を嘖んだ。

「だーれかさんが、だーれかさんが、だーれかさんがみーつけた、小さい秋、小さい秋、小さい秋みーつけた」歌いながらも溢れでる涙を止めようとはしなかった。

遺骸を棺桶に入れたまま添い寝していた二日目の晩、うとうとしていると、突然達哉は途方もなく大きな渦潮に巻きこまれ、その中心に向かって勢いよく吸い込まれて行った。くるくると回りながらも意識はしっかりしているが、体は円錐状にそそり立つ紺碧の渦潮の底に向かって下へ下へと際限なく落ちて行った。「ああ、これが奈落の底か」とつぶやいた途端に夢から覚めた。

　三日目の朝、最後の別れにと棺桶の蓋を開け、遺体の耳もとから額まで積み上げられた百合の花をかき分け、頬をそっと撫でた途端に、頭蓋骨がずれておでこに段ができ、穏やかだった死に顔が急にゆがんで、死臭がムッと鼻を突いた。彼はあわててまた百合の花を積み上げ、棺の蓋を閉じた。頭蓋を輪切りにして脳を調べたため、時間の経過とともに切断された頭蓋がずれて来たからであった。死亡診断書には膠原病により引き起こされる諸疾患が列記され、直接の死因は脳幹出血となっていた。

　志織が死んだのは一昔以上も前のことだが、秋は毎年忘れることなく巡って来る。さわやかな秋の、どこまでも抜けるように澄み切った紺碧の空を見上げて、悲しいと思うのは彼だけかも知れない。庭を赤く染める、まんじゅしゃげ、そして香りを載せてほろほろと散るキンモクセイの黄色い花粒、この季節になると彼の耳の奥底には「小さい秋みーつけた」のメロデイーがどこからともなく聞こえて来るのだった。