『清水の次郎長』で有名な東海道の港町、清水市は、昭和19年の暮れから終戦の年、昭和20年の7月7日にかけて、前後10回に及ぶのB29の焼夷弾爆撃を受け、町の殆どは焦土と化してしまったが、更に同じ年の7月31日の真夜中、米潜水艦による艦砲射撃のつるべ撃ちを浴び、湾岸一帯の諸施設は無惨にも大破してしまった。しかし、米軍の戦略上の理由からか、ここ東海道石油株式会社の製油施設は、ほとんど無傷のまま残っていた。
戦後2年が経ち平和が戻っては来たものの、期待していた原油はまだ運び込まれる当てもなく、駿河湾に面した広大な石油工場はひっそりと静まりかえっていた。
いつになったら原油の輸入が許可されるのか見当も付かないままに、ただ、のんべんだらりと油がくるのを待っている訳にも行かないということで会社は、東海道薬業有限会社を構内に設立して、内職仕事にサッカリンの製造を始めることにした。
甘みに飢えていた戦後の社会で、サツカリンは飛ぶように売れたが、当時それは禁制品であり、いくら儲かるからといっても所詮はヤミ仕事で、いつまでも非合法な事業を続けているわけにも行かず、そろそろ足を洗ってまともな仕事をと、もくろんだ結果が将来きわめて有望視されているワクチンの製造であった。
そこで昭和22年暮れ、会社は工場内の一角にあった研究所を整備し、並行して別の子会社、日本ワクチン研究株式会社を設立して許可を取り、此所でワクチンの試作を開始し軌道に乗った所で、東海道薬業を解散して日本ワクチンにすり替えることにしたのである。
ワクチンといっても腸チフス、パラチフスの所謂「腸パラ混合ワクチン」は製造も簡単であるが余り儲けがなく、目標は百日咳、ジフテリア、破傷風の三種混合ワクチン、略して「百ワク」と呼ばれるワクチンの製造であった。
「百ワク」は子供に取っては恐ろしい病気である、百日咳、ジフテリアを未然に防ぐ救いの神であり、蔓延を防ぐため当時は強制的に接種されていたが、製造がむつかしく量産ができない代わりに、大変儲かる生物学製剤の一つでもあった。
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