親会社の、東海道石油株式会社から天下って来た社長の下に掻き集められた技術陣のメンバーは、満州から引き上げて来た軍医、軍獣医等の技術将校とその部下の一団であり、世が世であれば面と向かって口もきけない程の高官連であった。彼らは細菌と防疫の専門家達であり一様に寡黙であったがしかし、時々ちらっと漏らす言葉の端々から、かつて満州でやって来た研究の内容を推測するには十分であり想像すると背筋が寒くなるのを覚えた。
翌、昭和23年春「百ワク」の生産が軌道に乗ってきたところで、最初の子会社、東海道薬業有限会社は整理され、後発の日本ワクチン研究株式会社一本に絞られて本格的に「百ワク」の製造が始まったのである。
「百ワク」は機械的に大量生産することができず、牛の生血を寒天で固めた真っ赤な培地の一本一本に百日咳菌の種を植え付け、孵卵器で培養した後、培地に発生した菌を再び一本づつ白金耳で掻き取るという、大層根気のいる手作業であった。
この種付けも、そして掻きとりも、すべて若い女子工員の手で行われていたが、作業室は空調設備もなく雑菌の侵入を防ぐため空気の流通を嫌い密閉され、夏になると白い帽子を目深にかぶり、白衣を着込んだ彼女らの背中からにじみ出す汗の匂いと、発散する若い体臭でムンムンとむせかえるばかりであった。
孵卵器から取り出されて掻き取り室に持ち込まれた、小型の尿瓶に似た培養器の中では、すでに百日咳菌が勢いよく繁殖し、瓶の中の赤い苺ゼリーを流したような血液寒天培地は、真っ白で真珠ように艶のある百日咳菌でべったりと覆われていた。そのコロニーを、彼女たちは一本づつ、ていねいに白金耳で掻き取っていった。
更にそのあとには、掻き取り後の不用培地を瓶ごと金網籠に入れ、大人三人が楽に入れる程の大きな高圧釜で滅菌し、茶色に凝固した中身をへらで掻き出し空瓶を更に洗浄、滅菌するという大変な作業が控えていた。
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