慣れてきたとは言え、いつもこの瞬間に彼女は必ず目をつむった。目を開けると真っ赤な血液が勢いよくフラスコの中へ流れ込んだ。用意した数本のフラスコを次々に差し替えて採血した後、生暖かいフラスコを直ちにダンボール箱に詰め込むと、採血班はは急いで帰途についた。会社では培地班が首を長くして彼女らの帰りを待ち受けていたからである。
培地室に持ち込まれたダンボールからは、次々と生血の入った三角フラスコが取り出されたが、それを見ていたY主任はいきなり血相を変えて怒鳴った。
「なんだこりゃー、おいS子おまえは一体何を入れたんだ」とS子に詰め寄った。
「わたし、言われた通りクエンサンを入れました」
「なに!馬鹿もんクエンサンじゃーなくてクエンサンソーダだ」
普段はもの静かな主任もこの時ばかりは顔を赤くして激昂した。確かにいつもは真っ赤でさらさらしている血液が、どの瓶のもみんな赤黒くゼリー状にぶよぶよとフラスコの底で固まっていたのだ。S子は驚きと当惑で泣きそうになりながらも口を尖らせ必死で
「だって昨日先生にクエンサンでいいですかって二度も聞いたら先生は『そーだ』といったじゃーないの」と抗弁した。
「そーだ?あれはクエンサンソーダのソーダだ、クエンサンを入れたら血が固まってしまうのは当たり前じゃーないか、I子おまえもおまえだ、何でS子にちゃんと教えてやらなかったんだ!」
騒ぎを聞きつけて飛んで来たI子に向かって先生は八つ当たりした。
「そういえば血液の様子がいつもと違うと思ったけど」とS子は口ごもったが、すべては後の祭りであった。試薬棚にはクエンサンソーダが入ったポンド瓶の他に食塩、緩衝剤に使う燐酸塩などの間に混じってクエンサンのポンド瓶が置かれてあった。
血液凝固防止(けつえきぎょうこぼうし)に使うクエンサンソーダの溶液は、普段なら予製して装置瓶(そうちびん)に用意してあったはずなのに、その日に限って中身はからっぽになっていた。ラベルには単に『チトラート』とだけしか書いてなかったため、『チトラート』がクエンサンソーダの同意語であることを知らない彼女には、ラベルの意味が理解できなかったのだ。先輩のI子を捜したがあいにくI子は見当たらなかった。そこでY先生に確認したところ、Y先生は『そーだ』と言ったので、S子は『そーだ』は肯定であると信じて疑わなかった。ところが、この『そーだ』は然りではなく、ナトリウムのソーダだったことを彼女は理解する由もなく、クエンサンの溶液を作ってしまったのだ。
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