それから二年間、百ワクは売れに売れ日本ワクチンは、百ワクの生産に関しては国内でも屈指のワクチンメーカーにのし上り順風満帆、我が世の春を謳歌した。
夏のボーナスがタンマリ懐に入った工員たちは毎晩のように飲み歩いていたが、併し、工場長の顔は冴えなかった。
「おい、君、毎晩飲みにゆくのもいいが、今のうちに貯金でもしておいたほうがいいぜ」と、二日酔いの部下をたしなめた。
この会社はワクチン以外にめぼしい製品を持たない上、技術陣は生物学製剤に関するノウハウしか持っていなかったからである。
果たして昭和25年春になると工場長の心配は的中し、百ワクの売上は月ごとに減少の一途をたどりはじめた。理由は競合メーカーの続出により製品が市場にダブつきだしたからである。
技術陣は焦ったがしかし、社長は強気の姿勢を一歩も譲らず、百ワク一本槍でその増産を社員に督励した。一時は損をしても親会社のバックがあるということと、もう一つ社長は近く必ず朝鮮動乱が起きると予知していて、動乱が起きれば必ず国内の物資は徴発され、同時にワクチンも払底し、今までの赤字は一挙に取り戻せると頑(かたくな)に信じて勝負に出たのである。
その後、時は経っても売り上げは依然として伸びない上にやがて資金は底を付き、銀行の借金と在庫だけが確実に日を追って増え続けて行った。
昭和二十五年六月二十五日、果たして社長の予測通り朝鮮戦争が勃発し国内は所謂、特需景気に沸き立ったが、不幸にして百ワクはその恩恵を受けることなく、彼の思惑は大きく外れてしまった。その年の秋も深まった頃、社長は持病が悪化し失意の内に帰らざる人となり、四千万円を越える銀行の借金と不良在庫だけが残って会社は倒産し、従業員は四散した。
会社が倒産して略々一年後に再び百ワクブームが訪れたと伝え聞いているが真偽の程は定かではない。親会社にはその後間もなく原油輸入の許可が下り、石油製造プラントは息を吹き返した。
或る石油会社が復活するまでの束の間を埋めて、絢爛と咲き、そしてはかなく散ってしまったアダ花のような製薬会社があったことを、半世紀を過ぎた今日、知る人は少ない。
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